2011年6月12日日曜日

ゼロ首相と日本

 菅直人は政治的空白そのものだと感じる。首相の位置にいることで空白が生じている。空白総理というか、ゼロ首相とでも呼ぶよりない。
 ただし、これは本人の資質や努力から来ていることではなく、状況が露呈させてしまった事だ。
 戦時中は大政翼賛会だった市川房枝を「進歩派」として担ぎ出す程度の政治家が、政界遊泳術にだけ長け、首相に上り詰めた。ゼロ首相の念願は長期政権で、小泉首相と並び、超えるのが夢だったという。
 ゼロ首相にあったとすれば、この政権への妄執だけだった。こういう相手を引きずり下ろすのは、かなりの汚れ仕事で、なまじの者には歯がたたない。鳩山は「なまじ」もいいところだった。
 無能で決断力も判断力もなく、責任感も知能も、事態に正面から立ち向かう意志力もないのは、しかし、ゼロ首相だけではない。東京電力トップも無能なジジィたちだとバレたし、原子力委員会も馬鹿の寄せ集めだと判明してしまった。
 これまでふんぞり返っていたお偉いさんたちが、軒並み役立たずだったのである。
 これはどういう事だろうか? 指導者がこれほど無能というのは、日本人が民族的に劣等だという事なのだろうか?
 いやそうではない。ただ、無難な人が上に行く傾向があり、それがあからさまに裏目に出たのだと思う。
 彼らの無能は彼らのせいだが、それを言っても、今から能力が向上するわけはない。彼らにはどうしようもないので、さっさといなくなってもらうしかないだろう。

 ゼロ首相だといいのは、官僚たちで、思う存分働いているだろう。でも、やはりさほど能力があるわけではないし、欠損のある人格の者が多いし、空白が埋まるわけではない。

 歴史的にトップが軒並み無能だった例は多々ある。革命期のロシアでは、レーニンの無能のせいで、ウクライナで600万人の餓死者が出た。それでも政権は維持されてしまうわけだから恐ろしい。そこで為政者にタカをくくられてはたまったものではない。