2017年6月29日木曜日

CO2よ今何処

 東日本の大震災の前まで、ドイツのメルケル首相はドイツで原発を推進すべく事を進めていた。CO2問題に対処するためだ。それで、ドイツとロシアの企業がコラボするところまで行っていた。
 それがフクシマでパーになった。
 ドイツは、原発大国フランスが隣で、そのフランスをしっかり従えてるから、足りない電力はフランスから買えばいい。EUの枠組みは、そういう意味でも都合がいいという事なのかな。

 そして、CO2はどこかに消えて行った・・・

伴淳三郎は「やんな!」と言った

 バニラエア騒動で一番酷かったのは、またもやマスコミだった。
 お涙頂戴は昔からマスコミの大好物だったが、今回、何だかわけの分からないイラストまで出して一大興行にした。
 イラストだぜ。絵だよ、絵。印象操作の最たるものじゃないのか?

 記事やニュースでの話はちぐはぐだし、何がどうなってるのかわからないし、本当に取材してるのかどうか怪しいまま、様々な人たちが早々とコメントを出し始めた。

 根本的に人権に関わる重要な事に対して、マスコミは拙速が過ぎた。どうせすぐに別れる芸能人の惚れた腫れただのとは話が違うんだぜ。いい加減にしろよ。

 しかし、イラストか・・・絵か・・・今後、記事の文章にイラストをつけて、何でもかんでも、好きなように伝えるといいよ。今と変わらないから。


 オレ、イラストがかけたら、蓮舫がパスポートでババ抜きやってる場面なんかかくかな。




エレーヌは待っても来ない

 エレーヌ・ブラン、フランス語では著書が出ている。
 英語だって、必死なのに、フランス語なんかまったく勉強していない。
 問題はそこにある。

 ああ、一度、ちょっとと思って、英仏併記のボードレール詩集に手をつけてみたら、堀口大学が誤訳しているのを見つけ(フォンテーヌね)、しかも、誤訳が継承されていて、訳書だと誤訳本の方が多くて、正しい訳の人が少ないのを知って愕然とし、何だか嫌になって放り出してしまった事があった。
 堀口大学、ボードレールとは相性が悪かったんだと思うけど、それでも日本に紹介しなければという使命感があったんだろうね。で、よくわからないけど、精密にやるのは後に続くを信じて、とにかくやっつけたんだろうな。師の誤りを正していない弟子どもは、墓の中ででも恥じるべきだ。

 アマゾンでリストを眺め、ため息をつく。面白そうなのがあった。

 読みたいんだけど・・・



 

オレ、航空会社じゃなくて良かった

 昔から、左翼がさんざん身障者をダシにして行政やら企業に因縁つけて来た。そういう中に長い間いたら、それがあたりまえだと心得るようになってしまう人が出てきても当然だ。左翼は自分だけは特別だと無意識に思っている人が多いから(正義だからね、始末がつかない)、そういう無意識も共有する。身障者である事はおそらくつらい所が沢山あるだろうから、そういう無意識は慰めになるだろう。
 しかし、行政と企業、社会と個人の区別をつけられない場合、正義はわがままに転落する。
 格安とバリアフリーがトレードオフになってしまうが、事前に連絡すれば対処がなされるのに、連絡なしに行って対処を迫るというのは、主観的に正義であっても、わがままの押しつけでしかない。

 行政の人間とかは、そういう事は知っているだろう。でも、議会が認めて予算がつくのならそれでいいだろうし、何となくバリアフリーの正義に逆らうのも気が引けるし、物言えば唇寒しだから黙っている。
 企業も、風評が怖いから、お詫びぐらいする。どうせ、設備の拡充を行っていたところだったというし、拡充の寸前にやられたという事で割り切れない感じは残るだろうが、そこにこだわっていてもビジネスで得にはならない。悪うございましたと頭を下げ、早く終わらせる方が利口だと判断したのだろう。普通、そうする。

 昔、故吉本隆明が、講演中に、うまくしゃべれない身障者に質問され、聞き取れないので聞き返したところ、「差別だ」と言い出す者がいた。結局、吉本は怒って、講演を中断したという。
 これはあたりまえだ。これを差別だと言い出す異様な空間を良しとし、馴染めるのは、悪い意味で奇特な人でしかない。

 日本は江戸末期から差別をなくそうと取り組んで来た。紆余曲折があったとはいえ、延々と取り組んで来た。ポピュリズムで差別に与する方が安直であっても、人道から外れる事を良しとしないで来た。そのせめぎあいは続いている。

 バニラエアで掟破りをやった人は、バリアフリーが絶対的な至上の正義だという感覚を持っているのかもしれない。それを事前連絡という形にされると、ありがたみが減るね。 

 バニラエアは対処しないと言っているのではない。対処するために事前連絡をしてくれと言っているだけだ。それは、対処する側にも都合があるという、あたりまえの話でしかない。

 差別などない方がいいに決っている。そして、事前連絡は差別ではない。












エレーヌ、待っているんだよ


ショパン猪狩はアーニーパイルで将校相手に比島決戦の歌を歌ってた?

 何だか、阿呆な左翼が口にする決まり文句のひとつを思い出してしまった。
「世の中が戦前と似て来た」
 といった感じの言葉だ。
 よせよと言うしかない。

 その理由の1番目は、
 戦前をそうはっきり知っているとは思えない年齢の人が言っている。

 2番目は、
 根拠を示さず、感じだけで言っている。

 3番目は、
 何度同じセリフを聞いたと思ってるんだ、この野郎!

 という風にまとめていいかと思う。
 はっきり言って、もう何十年も、日本は戦前になど似ていた事はない。
 あの連中が、今、言うとしたら、戦後ではなくなって来ているというのが内容だと推し量れる。
 戦後が終わると、戦前しかないのかぁ? 恐ろしい寝言だな。いや、世迷い言か、この場合、どっちが適切だろうか?

 だが、その寝言は、空っぽになってしまった戦後の今の有り様を、意外とよく表しているかもしれない。

(誤解したがる人のために蛇足ながら付け加えると、戦後がずっと空っぽだったと言っているのではなく、今となっては空虚になったと言っています。空虚になったのは、時間の経過で劣化したのと、食い散らかした人たちがいたからです。もちろん、食い散らかしたのは、食い散らかせる立場にいた人たちです。一例をあげると、従軍慰安婦の強制連行をでっちあげた朝日新聞などが食い散らかした方です)



山盛りご飯に箸立てて

 去年あたりから、日本で一番ポピュリズムに弱いのはマスコミだという事があからさまになった。
 マスコミが高齢者層への影響力を駆使し、若者層はその動向から離れて行く。

 アメリカのトランプ大統領は、ポピュリストと言われているが、マスコミと対決し、大衆の支持を得ている。その理由はアメリカの大衆が、マスコミをエリート層に属していると見て反感を持っているからのようだが、日本の高齢層とマスコミは、感覚的に近いようだ。高齢層は、考えるのが面倒になっているだろうし、考える訓練などしていない時代の人々だから感覚なのだが、マスコミ人の凝り固まった視野と価値観がその感覚にフィットしているのかもしれない。それを別の言い方で表現すると、戦後という事になるのかと思う。
 安倍晋三首相は「戦後レジームからの脱却」を掲げているから、戦後さんたちは取り残されると不安に取り憑かれてしまったのかもしれない。

 スキャンダルにもならないスキャンダルを針小棒大に取り上げたり(注1)、森元首相や自民党都議連やその決定を悪役に仕立てる(注2)やり方は、ポピュリズムそのものと批判されているが、マスコミは自分たちが正義(注3)だと信じ切っているから、まったく意に介さない。

  • 注1:針小棒大という言葉は、針ほどに細いものを、棒の太さだと大げさに言い立てる事をあらわしている。森友などの騒ぎには、針ほどの根拠もない。せめて針程度には実のある話を持ち出してくださいね。
  • 注2:森元首相や自民党の爺さまたち、態度が偉そうだし、説明は下手だし、そういう所で政治家の資質の低い人たちだったからいいようにされてしまった。政治家というのは口説の徒なんだから、長い間、みんなで話し合って決めた事で、その内容は議事録にきちんと公開されているという事を、理解しやすく説明しなくてはいけない。だから、議会で決まった事、つまり、立法府で決まった事は、行政は粛々と実行しなくてはいけないとはっきりさせなければいけなかった。それが出来なかったのは、まあ、頭が悪いのと、感覚が古すぎるのと、もうひとつ、爺さまだから人相が悪かったのとという風に理由が重なってしまったね。それに、挨拶を拒否してみたり、子供じみた行動をしたのもマイナスだった。政治家は政治サービス業に志願して就職しているだけの人だという自覚を持ち、ストレスに耐える事、冷静さを保ち、感情的にならない事、仕事をする事、言葉に重々気をつける事、身ぎれいにする事といった諸々を守れなければいけない。
  • 注3:マスコミが正義だとふんぞり返っていられたのも戦後的感覚だね。マスコミの正義というのは、事実を掘り起こして来る事によって担保されるしかないが、そのあたりが転倒してしまうと、善悪を先に決めてしまって、印象に依存した報道に走ってしまうのではないかと思う。それは「印象操作」といった高度なものではなくて、ただ印象に依存しているだけだ。だから、その印象に依存しない人、印象を共有しない人には、何やってんだ? としか見られない。たとえば、森元首相や自民党都議連がいくら感じ悪くても、悪人に見えたとしても、違法行為、背信行為をしたという事実をつかんだのでないなら、安易に悪役に仕立て上げてはならない。それこそ、おそらく戦前のドイツ人には悪い印象しか持たれていなかったユダヤ人を大虐殺するまで悪役にしたてたのが、ドイツのポピュリズムだった。マスコミは、嫌いだからといって、また、自分と違うからといって、それを理由に悪役を作り上げてはいけない。その意味で、去年あたりから、マスコミは顕著にタガを外している。
 マスコミは、自分たちが正義だから、自分たちが嫌いな存在は自動的に悪になってしまうのだろう。そういうマスコミ様を信心しているのは高齢者らしいから、絵としてはまとまっている。昔から、婆さんは信心に熱心になるものだ。そして、若者が信心など見向きもしないのもあたりまえの話だ。

 これまでは自民党の爺さまたちも、マスコミも、左翼も、省庁も戦後を共有して来た。これにヒビが入ったのは、戦後というパイが縮小しているからだろう。だから押しのけあっている。しかし、まともだったら、もうそれは食えないから、新しく日本がみんなで食えるようにして行こうよとなる。そんな事もわからないようだから、戦後にしがみつく人たちは、まともな人々から冷たい目で見られて当然だ。

 破綻した正義が、破綻していないものは悪だと決めつけ、襲いかかる姿は、信心の世界で言うと餓鬼と表現する。南無阿弥陀仏。








2017年6月27日火曜日

批判は、感情を表に出さないで行われる悪口だが、馬鹿は丸出しになる

 今井絵理子という自民党の参議院議員が「「批判なき選挙、批判なき政治」を目指して」と言っているのが話題になっているらしい。教えてくれた人がいる。
 今井がそんな政策とは言えないような政策を掲げている背景には、批判が悪い事だと思っている若い人が増えているという話になっているのだと言う。
 批判の何が良くないかというと、「批判は悪口や人格否定と同じ」だというわけだ。
 ええと、そこはまとめた方が良くて、「批判は批難と同じ」という風にしてみようか。そう感じる人が多いのだという。
 昔々、おじいさんがまだ子供だった頃、
「批判は批難と違う。君のは批難だ」
 と言って、相手をはねつける言い方があった。横で聞いていて、それはそうだけれども、その違いを言ってくれないかな、どこが批難なのか指摘してくれるないかな・・・などと思ったものだが、たいてい、その後は
「何だとこの野郎」
 となるか、あるいは、そのまま手が出るとかいう展開になってしまったので、疑問は解消されなかった。
 で、今、そこは矛盾していないかとか、飛躍があるようだねとか、説明が飛んでいるよとか、そういう指摘というか、疑問を表明する場合、半ば以上批難していると思う。

 例えば、社民党県連常任幹事も務める徳島市の小林雄樹市議が、徳島駅周辺で制服の女子生徒のスカート内を盗撮した容疑で事情聴取され、スマホにパンツが写った写真が2枚あったという話題で、社民党所属小林雄樹徳島市市議本人が駅前整備のための調査で写真撮影をしていたが、知らない間に写り込んでいたと釈明したのをテレビで見て、

「んなわけないやろ」
 と、画面に向かってなぜか上方言葉で言うのは、ほぼ批難の色で染まっている。
 そして、

 スマホを手に持った社民党所属の小林徳島市議の行動を目撃した人が不審に思い、近くの交番に届け出たという発覚の経緯を知り、さらに、社民党の小林市議が最初、以前に勤めていた職場の懇親会に出席するために駅前を歩いていたと言っていたのを知るにおよんで、


「んの野郎、嘘ばかり抜かしやがって、ただのエロ議員じゃねえか!」
 と言うのも批難だ。
 本当は、もっと豊富な語彙を駆使し、多くの点に触れたのだが、思い返すと公表するに耐えないので割愛する。つまり、99.99%ぐらいカットした事だけはお伝えしておく。とにかく、口を極めて悪く言った。

 さて、ここで批判と批難はどれだけ違うだろうか? 例えば、誰かの容姿を、
「コラ、このしゃくれ」
 とか言ったら、これはただの悪口だ。
 しかし、批判の中に皮肉を入れるという事はよくある。この皮肉というものは悪意の化身だから、つい口から出た悪口よりも良くないものだ。うまい皮肉は面白いけれど。

 批判も悪口も、暴力につながる可能性があるのは同じだ。
 批判されるのが嫌なのは、誰でも、洋の東西を問わず同じだし、感情的になるのも同じだ。ただ、抑制しているだけだ。
 じゃあ、ない方がいいのかというと、日常生活を円滑なものとするには、批判などない方がいい。選挙ではどうかというと、ネガティブ・キャンペーンは嫌なものだからやらない方がいい。批判なき政治は・・・どうだろうね?

 でも、アスリートの世界では、自分が自分を批判的に見ているだろうし、他の選手からも批判的に見られているだろう。
 ここがいい、あそこがだめだと、お互いに見ている。それはアスリートの世界、あるいは、プロの世界として当然の事だ。その冷徹な目がなければ自分をいじめ抜いて上に行く事はできない。

 だが、一般的には、人間は感情的で、批判と批難の区別などない。何もない時にはそんな区別があるつもりでいても、いざとなると区別など吹っ飛んでしまう。批判的に見る能力を持っている人も多くはない。ある人が批判能力がないとしても、それはしかたがない。その能力がないんだから無理だ。

 批判があるべき形で成立する特別な場所はあるだろう。でも、それは限られているという事だ。多くの空間では、批判と悪口の区別がなくなってしまう。だから争いの元となる批判は避ける方が賢明だろう。
 若者が批判を悪い事だとみなしたり、感じたりするのは、生活を営む上では正しいと考えられる。批判など避けて楽しくやるのがいい。

 今井絵理子参議の政治の世界に戻ろう。
 政治の世界では、立場の違い、争いが前提だから、批判も批難も悪口も人格否定も歪曲も嘘も何でもある。批判能力があろうとなかろうと、向かい合わなければならない。
 言い方を変えると、政治というのは争いというケガレを引き受けるものだから、そこで「批判なき」なんて言うのは、ケガレを引き受けないと言っているのと同じ事になってしまうと思う。あまり前向きではないしね。
 つまり、批判を問題にする事は政治的には間違っている。沖縄に早く基地を作ろうとか、原子力発電所を早く稼働させようとか、そういう前向きの中身を言うだけでいい。
「(何々)なき」というのが前向きではないのだ。中身がない感じになる。

 一応、付け加えておけば、英国あたりには、今井のように「批判なき政治」なんて考えてる政治家がいるかもしれないとは思う。英国人、上の階級に間抜けがいるしね。
 
 何か批判していると自分が頭がいいと感じられて気持ちがいいという人もいると思う。
 個人的には悪口は好きだが、批判は面倒臭い。
 悪口は感情だが、批判は首尾を整える必要があるからだ。
 で、首尾を整えただけ利口に見えるかというと、そうも思えない。努力が無駄になる感じがある。
 本当に頭のいい人は、無意味な批判はしないだろうし、批難もしないだろう。だから、批判などしていると、馬鹿にしか見えないと考えるべきだ。

 一番重要なのは、馬鹿丸出しではない批判というのは、とても難しいもので、とても少ないという事だ。
 おそらく、悪意のない批判は、指摘とか、評価とか、別の名称を持つものとなるだろう。







2017年6月26日月曜日

由利徹、イヨマンテも好きだった

 ナポレオニの新刊、やっぱりまた遅れた。9月になるそうだ。本当に9月に出るかどうかわからない。
 本が出る前に、IS全滅しちゃうんじゃないか?
 それはその方がいいけど、本は読みたい。

 ロシアがシリアに居座るために、殲滅戦まではやらないかもしれない・・かな・・・



2017年6月25日日曜日

小さな「ぁ」と「・・・」がね・・・ため息感というか、ね

 米大統領選挙へのロシアの介入問題で、米紙ワシントンポストが、
「米中央情報局(CIA)は大統領選前の段階で、プーチン氏がトランプ氏を有利にするためのサイバー作戦に直接関与したと判断。これをオバマ前政権に伝えていた」
 と報じたという。
 だが、オバマ前大統領は何もしなかった。
 オバマ前大統領は、格好をつける事以外、ほとんど何もしなかった人だったけど、こんな事でも知らん顔してた。

 トランプ現大統領は、これを批判しているという。

(記事は以下。CNN)

ロシア介入、オバマ氏は知りつつ「対応せず」 トランプ氏が批判


 ヒラリーはこれでオバマを恨み、憎悪するだろうが、それはお門違いかもしれない。ロシアがトランプに肩入れしていたとしたら、迷惑したのはトランプ以外の共和党候補だった可能性が高い。それに、ヒラリーは元々あからさまにオバマを嫌っていたから、今更憎まれても屁でもないだろう。
 この後は、ヒラリーがユダヤの魔術で呪詛し、ミシェルがブードゥーで呪い返しをする闇の世界が繰り広げられる・・・のは、漫画の世界か・・・

 しかし、クリントン家を支那が応援し、トランプをロシアが応援した感じだね。
 韓国と日本の担当は北朝鮮かぁ・・・

 

 

西郷の遺産

 明治維新後、日本の軍隊は刀を捨て、装備の西洋化を図った。これに対し、西郷隆盛が決起する形となった西南の役において、西郷軍に参加したかつての武士たちは剣を携えていた。もちろん大砲も銃もあったが、刀を捨てる事はなかった。
 政府軍は銃のみを装備としたいたから、西南の役は銃対剣の戦いとして始まった。
 日本の戦史において、戦国時代でも、すでに主力兵器は剣ではなく銃だった。いや、それ以前も、弓矢、槍、薙刀といった武器の方が主流だった。政府軍は緒戦から勝利するはずだった。
 しかし、政府軍は西郷軍の刀に斬り伏せられて行った。
 西郷軍の薩摩勢は薩摩示現流の使い手もいただろうし、維新戦争の兵士たちが多く参加していた。何よりもそこで生まれ育った者たちであり、地の利を活かした柔軟な奇襲作戦を実行できた。
 政府は慌てて、かつて幕府の治安部隊として活動した抜刀隊の生き残りなどを集め、西南の役に投入した。
 これによって、やっと政府軍は西郷軍を制圧したという。
 この戦訓のおかげで剣術が再認識され、警察は剣道を作った。
 実に西郷軍の活躍によって、剣術は残り、剣道が作り出された。
 剣道は、警察剣道に始まる。意図せざるものではあるが、西南の役なくして、後の剣の歴史もない。

 薩摩人が多かった警察剣道が示現流にならなかったのは、示現流が御留流だったためかもしれないし、西郷軍の流派という印象になったためかもしれない。剣道のあの気合が示現流譲りに感じられる事から、西郷をはばかったのが警察剣道、つまり、剣道がまったく別のものとして作り出された理由と、勝手に思いたい。
 明治政府は、西郷の亡霊を恐怖し続けたのである。

国粋主義試論 日本国粋主義の近代 2

 国権派――欧米派と、民権派――国粋派というのが日本近代の政治的対立の形です。
 国権派と民権派は相互に影響しあい、交差しながら近代の政治的動向を形成しました。
 国権派、民権派と言っても、互いに一枚岩というのでもなく、内部の対立や反目もありましたし、野合もありました。さらに、当時の人々の意識や自覚がどのようなものであったかという問題もあり、さほどすっきりと別れてもいません。様々な機微、思惑、感情、そして人間関係が絡まり合う事でもあり、複雑かつ曖昧です。
 民権派で言えば、目立つ所だけでも、民権運動と困民党運動の対立、国粋会と大和民労会の対立、国粋会と水平社の対立などがある他、国粋会そのものも、全国と東京、そして、東京も三多摩は別個に独立した国粋会を作っていました。
 それでも、国権派=西欧派と民権派=国粋派を別けて見る事は、日本近代を理解する上で役に立つと思えます。

 北一輝は民権派ですし、北が革命運動に挺身すべく支那に渡った時、宮崎滔天のつながりを頼りましたが、滔天も民権派でした。滔天は孫文と深くつながっていましたが、北が行動を共にした宋教仁は北の説によれば孫文に暗殺されました(本当にそうだとすれば、実行したのは孫文の懐刀だった蒋介石のコマンドでしょう)。そして、おそらく北が一緒に殺されなかったのは、滔天の存在があったからでしょう。その後、日本に引き揚げた北は、宮中某重大事件の怪文書で山県有朋を失脚させます。
 山県は国権派の中心人物として自由民権運動を徹底的に弾圧しました。秩父事件では寄居に乗り込んで陣頭に立ち、また、大逆事件を策動しました。
 北一輝は、山県への復讐として宮中某重大事件を仕掛けました。そして、おそらく、2・26事件に連座したとして北が処刑されたのは、国権派による報復です。

 国権派と民権派が合同したのが大政翼賛会でした。これが戦後に、多少の紆余曲折を経て自由民主党になります。ですから、自民党には山県有朋の子分の人脈もいれば、宮中某重大事件の怪文書で山県を失脚させた北一輝の弟子だった岸信介の系譜もいるのです。
 戦後の昭和30年代ぐらいまでは、民権運動出身の自民党議員もいました。

 国粋主義が国家主義による社会統制を目指したもの(つまり、ファシズム)であるというのは、日本の近代史に対する重大な誤解です。
 日本国粋主義は、西洋にかぶれ、日本を見下すような病的精神を排するというだけで、排外主義ではありません。健全な愛国主義です。
 国権派の愛国主義が文明開化を焦るあまり、病的な歪みをもたらした事に対する批判から出た、民権派の愛国主義が国粋主義と言っていいでしょう。
 国権派から生じた病的精神のひとつが左翼運動の輸入でした。左翼からは国粋主義が右翼に見えたのは、こうした事情でしょう。左翼からは、自生の民権運動など雑草としてしか見えなかったのです。
 国権派と民権派は共に尊皇攘夷から出た潮流であり、どちらも明治維新の完成という主題を持っていました。「大正維新」「昭和維新」という言葉は、明治維新を完成させる第二維新という文脈で言われたのです。
 それが日本近代を貫く精神でした。 







2017年6月24日土曜日

社会的まだらボケ現象としての文書

 役所の人間は、政治家の名前を勝手に使って、他の政治家に
「○○先生がこうおっしゃってましたんで、お願いします」
 なんてやる。すると、言われた先生は、
「何、○○先生が、そうか、じゃあしかたないな。了承する」
 となって、誰も支持していなかった法案が支持されるようになったりする。もちろん、その役所が出した法案だ。
 これは自民党だけの話ではない。民主党時代もそうだったし、別に政権とは関係なく行われて来た事だ。
 官僚は政治家が馬鹿ばかりなので、いちいち説明するのが面倒になり、こういうやり方を編み出したのだろう。
 福田康夫が、首相時代にこれを注意した事があったと、どこかで読んだ。

 自民党の議員も馬鹿が多いようだが、社民党が社会党だった頃の村山富市(元首相)は心底馬鹿だったので、法案を作った役人に反対意見を作らせようとした事があったという。
法案を作ったのだから、ダメな所もよくわかるだろうという理屈だったらしい。自分で法案を読み、研究し、国民のためにならないと判断するという知性はなく、手間をかける根気もなく、ないないづくしだったから、自民党がこいつが手頃だと見て、与党に返り咲くべく首相にしたんだね。

 このやり方が、対政治家だけでなく、役所内でもやられていたのだとわかったのが加計学園問題だった。

 政治家個人ではなく、役所という組織には文書で伝達したというだけだ。文書といっても話を早くするための潤滑剤みたいなもので、言葉に例えれば、省内だけで通用する業界用語だ。つまり、正式のものではない。
 だから、これを表に出したら、その瞬間に怪文書になる。


 これをルールの話として考えると、役所が政府案として作成した法案を政治家に説明する手間を省いてしまう手法が常態化し、一種のローカルルールとなっていた。
 役所に限らず、会社などでも、組織は、組織のローカルルールに適応する事を求めるものだが、どうしてもローカルルール至上になりがちで、ジェネラルルールが無視されてしまう。
 左翼やカルトなどはこの傾向が強く。ローカルルールはジェネラルルールだと思いこんでいる。こうなるとソシオパスとされる症状だ。
 ソシオパスは良心を備え、共感、罪の意識、忠誠心を持つ能力を持っているが、善悪の判断が、帰属グループや帰属グループのサブカルチャーの規範、期待に基づいている人格。
ローカルルールはおそらく、適応してしまうと居心地がいいのだろう。妙であっても、それを妙だと感じる自意識がなければ部分最適の快感があるかもしれない。
 村一番が、日本一よりも良く、日本一が世界一よりも良いとか好きだと感じる人はいるだろうし、食べ物の好みなどを見れば、世界一のシェフの料理よりも母親の料理を美味しいと思う人がいても不思議ではない。また、これをソシオパスの傾向とは言わない。
(当面、これを程度問題という風に処理するとしよう。ここでの本題ではないので、それで十分だ)。

 ローカルルールがジェネラルルールと取り違えられてしまうと、これは病的な領域に入ってしまう。
 つまり、ローカルルール内のメモが、ジェネラルなものとして、ジェネラルな空間に出てしまうと、事態は病的なものとなってしまう。

 ここで病的なのは、ローカルルールとジェネラルルールの区別がついていない者という事になる。
 文部省もまだらボケしてるし、他も何だか・・・


 そんな事もわからなくなってしまったんだね。






選挙を静かにする方法って、ないのかな???

 都議選か・・・

 美濃部みたいな、最低のゴミ都政が続いた時もあったね。

国粋主義試論 日本国粋主義の近代 1

 国粋主義は自由民権運動から出た考え方です。自由民権運動の起源は普通土佐に求められます。狭義の民権の起源としては土佐でいいでしょうが、ここでは維新を国粋主義の起源として見て行きます。
 その理由は、明治維新にあります。
 幕末時代、徳川幕府も倒幕派もともに思想的には尊皇攘夷でした。京都の治安維持の一翼を担った新選組の「誠」も尊皇攘夷から来ています。
 維新後、明治時代になって天皇を国家主権者とする事で尊王は果たしました。しかし、攘夷はどうするのか。日本近代の問題はそこから発して来ます。
 攘夷論は国学によって支持されていました。明治時代までは国学は平田篤胤派が主流でしたが、平田学派はしきりに攘夷論を唱えたのです。
 しかし、国家権力を掌握した薩長明治政権は開国開化に向かいます。
 明治政権は日本の欧化を急ぎ、人材を留学させ、欧米の文化を積極的に取り入れます。欧化は軍隊の強化に直結したからです。強国のためには富国が必要です。商売には交通交流が欠かせません。語学、それも欧米列強の言葉が重要な位置を占めました。かつての支那語と同じく、これは否応の余地のないものでした。
 欧米列強がアジア、アフリカ、アメリカ大陸を植民地化し、支配している時代でした。軍事力を持っていなければ蹂躙されてしまいます。ロシアも虎視眈々と日本を狙い、勝手に上陸し、英国に追い出してもらわねばならないなどといった事も起きてる時代でした。
 武器兵器の取り扱い方法を知り、戦略戦術を始め、様々な技術を取り入れるのにも語学は不可欠でした。また、列強に肩を並べる文明国の体裁を整えるためには、文学芸術も立派に国家目標の役に立つものでした。
 ただし、その欧化には副作用がともないました。急激な欧化は何から何まで欧米が優れているという認識を生み出し、そこから日本を見下す風潮が生まれました。人は違いと優劣を混同しがちですから、何でもかんでも西欧がいいんだとして、自分が留学した事を威張りたがる輩が目に余ったのでしょう。
 そうした動向を象徴するのが鹿鳴館でしょう。行き過ぎた西欧かぶれと見なされ、反発する風潮が生まれます。
 政治的に、薩長に権力が集中した事に反発する土佐派など、薩摩の西郷派、西郷シンパの生き残り、様々な人々が薩長明治政権に異を唱えていました。土佐に始まった民権運動に、こうした諸潮流が合流して行きます。
 土佐派は、西郷決起の時、合流を目論見ながらも利害にこだわった挙句、期を逸してしまいましたが、おかげで生き残っていたのでした。
 こうして攘夷派の民権派が明治の大きな潮流となりました。この民権派に対して、国家権力中枢を掌握した薩長を中心とする藩閥を国権派と言います。
 近代日本の政治の基底に横たわるのは、この国権派と民権派の対立軸でした。
 国権派の欧化政策のありようが、日本人のくせに日本を見下す西洋かぶれを生み出しました。この鼻持ちならない西洋かぶれに対する異議として唱えられたのが国粋主義でした。
 国粋主義の内容は、日本にも当然いい所は沢山あるのだし、日本が卑下する事はないという考えでした。
 国粋主義は排外主義ではありません。馬鹿げた西洋かぶれは排しますが、自ら誇りを持つが故に西洋も尊重すべきところは尊重し、植民地における横暴といった点はこれを排するという、とても常識的なものです。
 西欧かぶれの元凶が国権派の欧化政策であった事から、民権派は国粋主義でした。
 民権派は自由党を作っていましたが、その自由党の呼びかけで結成された院外団が大日本国粋会でした。
 第一回、第二回の選挙で、警察や国権派右翼が阻止線で包囲する投票所に抜刀で突入し、投票の血路を開いたのは民権派壮士ですが、この人々が自由党や大日本国粋会に参加して行きます。日本の民主主義の選挙は、後に国粋会に集まる民権派壮士の白刃によって切り開かれたのでした。

2017年6月23日金曜日

攘夷の展望、あるいは人斬りの遺産

:これは前のブログに投稿していたものですが、他の投稿に関係するので、こちらに再掲します。

攘夷の展望、あるいは人斬りの遺産


2013/06/14

    幕末に活躍した人斬り彦斎こと、肥後熊本の河上彦斎は佐久間象山を斬った男だが、維新後もかつての同志に攘夷を迫り続けたため、新政府に対する陰謀の罪を着せられて斬刑に処されたという。
攘夷は維新の中心思想であったが、薩長の権力奪取後は焦点を失ってしまう。人斬り半次郎こと、薩摩の中村半次郎は、桐野利秋と改名し、陸軍少将となってしまうと、西洋かぶれをし、チョビヒゲをはやし、西郷隆盛にみっともないからよせとたしなめられる始末だった。
幕末を席巻した攘夷論は、維新後、攘夷のためには国力を蓄える事が先決だとする大攘夷論と、大攘夷論が興ったために「小攘夷」とされてしまう従来の攘夷論に分岐する。
そもそも幕末において、尊皇攘夷派でない政治勢力はなかった。そのため、維新などといっても、所詮は薩長の権力奪取でしかないという見方も出来てしまう。しかし、河上彦斎に見るように、攘夷論は薩長権力の樹立という局面を超え、維新後も続いていた。言葉を変えて言えば、維新は攘夷において未完だった。そのため、攘夷は、維新によって始まった近代日本の基調、あるいは無意識となる。
大東亜共栄圏を掲げ、欧米列強と戦った先の大戦は、一面において、スターリンの謀略、ルーズベルトの思惑、日本自身の領土的野心などが絡まり合い、日本を開戦に追いつめたのだが、一方の機微として東アジアに拡大された攘夷でもあった。 戦前、官僚から軍部皇道派、民間右翼、そして、おそらく民権運動にいたるまで、すでに終わったものとして維新を見てはいなかった。自らが完成させる事として維新を受け止めていた。この意識の根本にあったのが攘夷だと見ていいだろう。
攘夷というと、夜郎自大な排外姿勢と思われているかもしれない。しかし、再び明治に目を転じ、李王朝への外交を見ると、少なくとも初期において明治政府は礼節を持ち、平和的で妥当な態度で関係を結ぼうとしている。結果として征韓論になってしまったのは残念だが、平和的な関係を求める日本に対して、取り付く島もないかたくなな態度を撮り続けたのは李朝だった。ただ、ここではその事の歴史的評価ではなく、この問題を攘夷の質を推測する材料と出来ればいい。攘夷は国家としての日本の独立自立と、他国との平等な関係を、それが平等であるからには平和的に築きあげようとするだけの質を持っていた。
攘夷の夷とは動物の事であり、他の民族を動物に近い野蛮なものとして蔑む意味を持つ言葉だ。しかし、日本の攘夷論には、意味の転倒が繰り込まれている。つまり、野蛮な人倫にもとる行為をする者、何事も無理やりに力で押し通そうとする者を夷とする。だから日本人が外国で自ら夷となるのを戒めるだけの可能性を持っていた。
大東亜戦争に負けた結果、日本は、アメリカを筆頭とする連合国側に、戦前の日本がすべて悪だという意識を擦り込まれた。占領する側の政策としては当然の事なのだろうが、その結果、日本は自らを卑下し、否定し、自虐的になってしまう傾向を持ってしまった。反省と自虐が違うものであるのは当然の話だが、自虐的でなければ反省した事にならないという風潮まで出来てしまった。
戦前に悪いところがなかったはずはないが、どこからどこまで、丸ごとダメだったはずもない。そんなあたりまえの事にすら思い至らない人も少なからずいる。
この奇妙な状態を戦後とすれば、何十年続こうとも、戦後という現象は終わる。そして、日本は維新の完成という、近代日本の根本的な主題に向きあわねばならなくなる。その時、攘夷は始末し、昇華しなければならないものとして現れるだろう。

2017年6月22日木曜日

「監視社会」って、自分が社会不適応だと言っているにすぎない

「テロ等準備罪」の成立で、日本が警察国家になると言っている人々がいるらしい。
 その人達が警察国家をどのように定義して使っているか知らないけれど、定義も何もなく、「昔はオレも過激な事をやったもんだし、今だって気持ちは同じだ」みたいな(・・・)気分から、警察が取り締まり対象とする集団・組織に肩入れして無駄口を叩いているのだとしたら、哀れという以外にない。
 伏せ字にした(・・・)の部分は、「文学的過激派」と読んでいただけると助かる。かつて過激だった人たちは、「文学」という言葉をそのように使い、貶めていた。妄想と文学の違いがわからない、恐ろしい未開人だった。

 警察国家というのは、過剰な権限を与えられた警察が超法規的に国民の行動や表現・思想を監視し、人権や自由を侵害する国家という風に定義するのでいいかと思うが、北朝鮮や支那ではないのだから、心配する必要はない。

 警察が人権侵害をやらないとは思わない。違法な捜査、取り調べをやらないなどとは言わない。だが、今の人員と予算と権限で、日本国民の表現・思想。行動を監視するのは不可能だ。そんな不効率な事はやらない。
 そんな見当違いな事を言って危機感を煽るのは馬鹿げているから、言っている人たちが馬鹿だと判断されるだけだ。

 ヨーロッパでは、テロが起きているが、事前に摘発されるテロもある。すべてを防ぐのは不可能だが、未然に防いだり、迅速に発生したテロの犯人を特定し、背後を洗い出している。日本のように犯人逮捕に何年も何十年もかけていては、また人が殺されてしまう。そういう切迫した中で、日本の法整備が求められたのはあたりまえだ。
 同時に、警官が襲われたと言って、すぐにテロだと断定はせず、きちんとテロとテロではない犯行の区別もつけている。それによって、犯人の人権は守られている。

 テロ事件の防いだり、捜査をするために法整備をしたら警察国家だというのなら、今、世界中が警察国家を求めている事になる。その理由は、警察の権力志向ではなく、人の首を斬って面白がっているISのような、野蛮人によるテロの脅威があるからだ。

 もし、本気で「テロ等準備罪」に反対する人がいるなら、「警察国家」だとか「監視社会」だとか、空虚な言葉を弄んだり、法律でテロは防げないなどと無責任な放言をしていないで、この法律が出て来る背景・根拠を調べ、考えてみるべきだ。手も足も出ないはずだ。



 

知らない人にはわからないだろうけど、今回も解説はしないね

 なぜだか由利徹の胸毛ネックレスを思い出した。
 石川五エ門の入浴場面で使うやつだ。

 由利徹を思い出すと、南利明も出て来る。
 南利明と言えば、
「どえりゃーうみゃーでかんわぬくたまるでよー」
(訳:とても美味しいです。温まります)
 だが、何を言ってるかがわかったのは、随分と後の事だった。

 由利徹の石川五エ門や牢名主、好きだったな。あれが出来る芸人はもういないな。いる必要もないかもしれないけど・・・




ディーン・マーチンを聞きながら

 いつも酔っ払っていた印象のあるディーン・マーチンのマンボ・イタリアーノは楽しい曲だ。いや、マーチンの歌はたいてい楽しいのがいい所だ。心に染みすぎないのが楽なんだね。
 マンボ・イタリアーノの歌唱で言えば、ベット・ミドラーの方が迫力も歌唱力も上だし、楽しめるが、ミドラーが楽しめるのは、ミドラーがマーチンを楽しんでいるのが伝わって来るからだ。そういう芸当はマーチンには不可能で、ミドラーにしか出来ない事なのだが、そういう事が出来ないマーチンはそのまま楽しい。

 マーチンの実人生に苦労があったかなかったか、そういう事は知らないが、芸のありようが、軽みを持っていて、その感じのちょうど良さは類をみないものだった。
 ディーン・マーチンが愛されたのは、そこに多くの人が救いを感じたからだと思う。





言葉の底辺2

 ツイッターを見てたら、目についてしまった。
「強く食いかかった」
 という部分だ。
 これは
「強く食い下がった」
 の書き間違いだ。
 内容はとてもいい指摘なだけに、少し残念だった。

「食ってかかる」と「食い下がる」が混ざり合ってしまったのかもしれない。
 でも、意味から言うと、重ならなりません。



言葉の底辺

 ツイッターの投稿の中に、
選べられる」
 という言葉があった。投稿内容ではなくて、この言葉遣いを取り上げたい。
 これは、「選ぶことが出来る」という意味を言っていて、「ら」抜きをしないで使っているのだと推測する。「ら」抜きをしたら、
「選べれる」
 という言い方になる。読んでも聞いても醜悪だ。
 でも、「選べられる」も間違いだ。
「選ぶことが出来る」という意味は、
「選べる」
 で十分だ。

 例:
 好きな色を選べるのがいいね。

 ちゃんと通じるはずだ。すっきりしてるし。


 たまたま見た「選べられる」が目についただけで、これを投稿した方、投稿内容に特別な含みがあるわけではないのはご理解いただきたい。



 

雨の日、本を待ちわびる

 気圧低いせいか、今日、身体がだるい。

 ロレッタ・ナポレオニの新刊、何度も発売日が変更になってる。今のところ8月だけど、本当に出るのかな?
 初めて読んだのが「テロ・インク」だけど、知的で現実的な解析とレポートはいつも目を見張る。ピカイチだと思う。ヨーロッパやアメリカでは評価の高い人だけど、日本ではそうでもない。不思議な気がする。




2017年6月21日水曜日

区別したり関連を見つけたりが出来ない人、多いみたいだね

 憲法改正で自衛隊を国軍とするという議論になると、色々な所で戦争の話になる。
 どうして憲法改正と戦争が一緒くたに議論され、トレードオフであるかのような印象を醸し出すのか理解できない。
 憲法を改正し、自衛隊を国軍としたら、すぐさま戦争になるわけではない。また、今のままでも、北朝鮮や支那がしかけて来たら戦争になり、自衛隊が戦わねばならない。

 戦争は、憲法改正とも自衛隊の国軍化とも関係がない。有事=戦争の場合、まず自衛隊が出動するという役割が決っているだけだ。

(もっとも、その役割を果たすための法整備が整っていないので、超法規的にやって役割を果たすか、役割を果たす事を断念するかしかない)。

 今の憲法に「平和」とフレームがつけられているから、これを改正すると「戦争」というフレームがつくと、話を飛躍させ、憲法改正と戦争を一緒くたに議論しようとするのだろうが、それは印象だし、感情論にすぎない。憲法を改正し、それからも「平和」憲法と呼べばいいだけじゃないだろうか。

 憲法を改正し、自衛隊を国軍化しても、平和を守ろうという努力に変わりはない。それが矛盾すると考える人は、間違っている。



 


 

韓国大統領って、日本語出来るのかな

「福島原発の事故で2016年3月現在、1368人が死亡」発言の韓国・文在寅大統領、発言の元は東京新聞だったが、東京新聞読んでるのかね。日本語出来るのかね。出来ないとしたら、誰がその記事を教えたんだろう・・・???




2017年6月20日火曜日

文発言に、韓国内で間違いの指摘

 韓国の文在寅大統領が「福島原発の事故で2016年3月現在、1368人が死亡した」と、事実と異なる発言をした事に対して、韓国内の原発専門家らが間違いを指摘したそうだ。
 色々な所で、日本人も韓国人も感情的になっている時に、こうした冷静な対応をする人がいてくれてよかった。

 文発言の元となった「1368人死亡」は、昨年3月6日の東京新聞による報道だという。困ったものだが、それを確かめもせずに演説で触れるというのは、国家指導者として軽率に感じられる。
 日本も、鳩山とか、菅とか、そういう馬鹿で軽率で支離滅裂で最低の者たちを国家元首の席につけた事があるので、大きな事は言えないし、声がひっくり返ってしまうが、お互いに、もうちょっとちゃんとやろうよ。

 記事は下のタイトルの青色の部分がリンクになっています。
 朝鮮日報の李永完記者の記事です。

福島第1原発事故で1368人死亡? 文大統領の脱原発演説に専門家から異論

福島事故の死者1368人…「95%はストレスによる健康悪化が原因」

「事故現場で被ばくにより死亡した人はいない」





憲法を改正し、自衛隊を正式に軍隊としよう

 憲法を改正し、自衛隊を正式に国軍とするのは、あたりまえの事だ。そして、それは戦争とは別の事だ。

 日本に対して戦争を挑発している国はあるが、日本が軍事的に威嚇している国はない。日本が平和を望んでいるからだ。自衛隊が国軍となっても、それは変わりない。デマを飛ばして危機感を煽る事が自分たちの勢力拡大につながると思っている人々は別だが、自衛隊を国軍にしたら、すぐに戦争を始めるなどと思っている人はいない。
 何かというと、戦前に似てきたと感じてみたり、戦前に逆戻りするのではないかと危惧して見せたりする人が、年齢的に見てどれだけ戦前を知っているのか疑問だ。感じたり、思ったり、案じたりは、根拠がなくても出来る。そういう人たちの相手はしていられない。

 憲法改正と自衛隊を正式の日本軍とする事に賛成だ。






ポール・マッカートニーのニューヨークのライブは良かった

「レット・イット・ビー」は、初めて聞いた時に、それまでこの曲が存在していなかったとは信じがたい曲だった。マッカートニーの曲にはそういうところがある。新鮮さと同時によく馴染んだ感覚を持てる。
 苦しい時にマリア様が声をかけてくれる。なるがままに、なるがままに。

 キリスト教の重要な教義(ドグマ)に三位一体がある。その辺のオッサンが、三者の協力を言うのにこの言葉を使ったりするが(3Pには使わないと思う・・・)、それはただの馬鹿だ(馬鹿だから3Pにも使うかな・・・)。神(ヤハウェ)と子(キリスト)と聖霊(精霊ではなくて「せい」に「ひじり」を使います。キリストが天に召された後、神は聖霊を遣わせたという事のようです)を指す言葉で、それ以外を意味する事は絶対にない。
 この三位一体は、ユダヤ教を起源とする一神教の神の現れ方の事で、ヤハウェもキリストも聖霊も同じだという考え方だ。3つにして1つ、1つにして3つなんていい方をすると、猿飛佐助の術みたいになってしまうが、カトリックの最重要教義だ。
 で、ヤハウェが男なので、三位も全部男になる。この話はこれで閉じる。
 ところが、問題がひとつあった。聖母マリアの存在だ。これがはみ出してしまった。しかし、そして、しかも、マリアは物凄く慕われ、人気がある。

 マリア信仰は色々な場所で根強いけれど、そういう場所のひとつがポーランドだった。
 冷戦末期にアメリカと手を組み、ポーランドの連帯運動を強力に支援したローマ教皇ヨハネ・パウロ2世はポーランド人だった。彼の時代、CIAとされる神父がバチカンに乗り込み、ポーランド支援を補佐したとも言われている。
 バチカン銀行(宗教事業協会)は世界最大の銀行とも言われ、実務はロスチャイルドがやっているが、ここが連帯にフィナンスした。
 ヨハネ・パウロ教皇は1981年にトルコ人メフメト・アジャに銃撃され、重症を負ったが、一命をとりとめた。事件の日がファティマの聖母マリア出現の記念日だった事から、ヨハネ・パウロ二世はその後ファティマの奇跡にのめり込んだ。

 この暗殺未遂事件の背後にソ連のKGBがいて、ブルガリア、東ドイツも関与していたという。

 ファティマの奇跡はポルトガルのファティマという村で、三人の少女の前に聖母マリアが現れ、3つの予言を授けたという話で、バチカンは正式に奇跡を認定している(教会が認定していないものは無認可奇跡で、奇跡にうちに入らない。もちろん、そこらの惚れた腫れたが認可される事はありえない)。
 この3つの予言のうち2つは早いうちに公表されていたが、第3の予言は1960年に公開するようにとマリア様が指示したので公開されなかった。そして、その時が過ぎても公開されなかったため、様々な憶測を呼んだ。日本でも、憶測本が出ていた。
 今は公開されたが、まだ本物は出ていないと考える人も多い。

 イベリア半島は、カトリック教会の肝いりでイスラム勢力を追い出した場所だ。これがレコンキスタ。教会は、そこにスペインとポルトガルを建国する。どうしてスペインだけではなかったのかというと、その頃、大きな力を持っていたテンプル騎士団が自分たちの国を建国したいとしてポルトガルを作ったからだ。フランスが教皇庁に影響力を持っていた時代にテンプル騎士団は弾圧されたが、ポルトガルのテンプル騎士団はキリスト騎士団と名称を変えて存続した。

 マリア信仰に関する伝説のひとつが、映画「ダ・ヴィンチ・コード」の元になっている。映画も原作もつまらないが、ネタのチョイスは上手い。
 
 マリア様の話は、ファティマの予言まで来て元にもどる。
 第三の予言は、マッカートニーの言った通りかもしれないよ。あまりキリスト教的ではないけれど、三位一体(神)からはみ出たものだからしかたないね。

 苦しい時にマリア様が声をかけてくれる。なるがままに、なるがままに。


 

白上げて、赤上げないで、白下げない

 安倍内閣の支持率が下がったそうだ。ネットで見てみたら、以下のような各社の世論調査が報告されていた。

安倍内閣支持率
読売新聞 49 %
毎日新聞 36 %
日テレ  39.8 %
朝日新聞 41 %
共同通信 44.9 9%
日経、テレ東 49%


 おそらく電話調査の結果だろう、36%から49%の幅がある。
 毎日の36%と読売、日経・テレ東の49%の開きは13%とかなりある。ざっと見ると、朝日の41%あたりが正解に近いように思えて来るが、朝日もあまりアテになる感じがしない。40%台の上の方というあたりじゃないかなというのが、最初の感想だ。
 でも、そもそもこの調査をした時に、家にいて電話調査に応じられた人というのが条件としてある事に気がつくと、これは情報弱者とか言われている層の調査でしかないんじゃないかと思えて来る。
 つまり、新聞やテレビのワイドショーの騒ぎにさらされている人々の傾向が示されているだけかもしれない。
 そうだとしたら、あれだけ新聞テレビが大騒ぎしたにも関わらず、40%台が安倍内閣を支持しているという事が、情報弱者と言われている人々の健全さを示しているように感じられて来る。

 この安倍内閣支持率低下の報道で、新聞テレビは加計学園問題や、テロ等準備罪が理由だとしている。ふうん、それって、自分たちが騒いだから安倍内閣支持率が下がったと言いたいんだね。じゃあ、一緒に騒いだ民進党の支持率見てみよう。

政党支持率
読売
自民党 41 %
民進党 7 %
日テレ
自民党 38.5 %
民進党 11.0 %

 政党支持率はあまり変わってないそうだ。
 民進党の支持率が上がっているんだったら、加計学園問題やテロ等準備罪が理由と言える余地があるけれど、どうも、そういうんじゃないようだね。
 安倍内閣の支持率を削りはしたけれど、全体としてネガティブ・キャンペーンは失敗したと考えた方がいいんじゃないかな。

 この調査で毎日新聞社の調査が目立って支持率が低いけれど、それは、毎日が調査結果を捻じ曲げたとかそういう事ではなくて、電話調査の質問の仕方が影響しているかもしれない。米大統領選挙の世論調査の失敗で、調査方法に色々と問題点が指摘されているけれど、そういう反省を踏まえた調査が行われているようには見えない。
 調査対象はランダム(無作為)に選ぶんだけど、調査する時間帯に家にいて、調査に応じられる人という事になるわけだから、自ずと対象が限られて来る。

 新聞を読む層は、もうほとんど高齢者層、別の言い方をすれば、情報弱者と言われる層だろう。この調査は、新聞にとって見れば、読者層の傾向を反映しているという事で、いいのかもしれない。世論調査としてではなく、読者層調査というわけだ。そっちの方が企業としては価値のある情報だね。
 テレビにしても似たようなものだ。

 まだ、テロ等準備罪で意見が分かれるならわかる気がするが、加計学園が同列に並ぶとなると、違うんじゃないかと思う。新聞テレビは、問題にしているつもりなのだろうが、加計学園問題の何が問題で、どういう問題なのか、まったくわからない。騒いでいる人々の幼稚さ、無内容さしか伝わって来ないからだ。
 それでも、内閣支持率を下げたという事は、影響力を示した事になるのだろう。情報弱者への影響力は、まだあるのだ。

 でもさ、弱者はいたわるべき存在ではないのか? 情報弱者をいたわるという事は、自分たちの影響力を維持するために、オーディエンスを囲い込む事ではなくて、ネットの情報もまんべんなく伝える努力をして行く事に思える。

 違う言い方をすれば、情報の非対称性を利用して情報弱者を食い物にするのではなく、対称性を確保すべく向かい合う事が必要だし、求められているはずだ。

 今、情報弱者層の情報環境は、新聞テレビのおかげでひどく劣化している。昔なら、ネットもなく、ほとんどの層を囲いこめたが、今はそういうわけにいかなくなっているから、差が大きくなってしまったのだ。ネットに接続できている人たちが、情報強者かというと、それも違うと思うが、新聞テレビの報道を相対化出来ているという点では、はるかに優位にいる。

 新聞テレビが保持している影響力は、内閣支持率が下がった割合に見合っているのだろう。それは、こんなものだろうなと思える程度で、それほどたいしたものには感じられない。



2017年6月19日月曜日

ドナドナドーナ、ドーナ

「社畜」という言葉がある。いい言葉だとは思わない。でも、共産党が、自主性があり、自分でものを考えられる人をことごとく除名してき来たのを見ると、残っている人を「党畜」だと指摘するのは、的外れとは思えない。
 党畜の党を支持する人たちも、亜党畜と言えるかもしれない。
 党畜発生は、ソビエト・ロシアの下部機関コミンテルンの命令への盲従が元だろう。

 露助は西欧に目を向けていて、ベトナム反戦運動を煽って上手く行った後は、手先だったパレスチナのテロリストを使って、西ヨーロッパを挟み撃ちにする作戦を展開した。
 西ヨーロッパでテロが吹き荒れた時代を鉛の時代と言うのだけれど、パレスチナからヨーロッパのテロリストたちに、山ほど武器が送られた。
 ロシアで教育されたカルロス・ザ・ジャッカル=ラミレスもテロを繰り返した。カルロスはブルガリアを拠点に活動したらしいが、要するに、ロシア情報機関の破壊工作員だろう。
 あの時、日本はロシアの標的ではなかったので、阿呆な連中が独自に爆弾テロをやるぐらいが精一杯だったのは幸いだった。朝鮮系、支那系だけでなく、多民族国家ロシアには黄色人種もいて、いつでも、疑似日本人テロリストを送り出せる。
 今でも、領土拡張のために必要だと考えたら、日本でテロを展開し、社会不安を醸成した上で攻め込んで来るだろう。日本のように平和を願い、努力する国は少ない。
 ソビエト・ロシアは、国民を国畜としていた軍事統制全体主義国家だった。外国の党など、本当はどうでも良かっただろう。余計な事を言わずに黙って畜に甘んじていればいいと考え、そうさせていた。

 結局、党畜党はロシアにとって、それほど大事ではなかったかもしれない。それよりも、自民党や政府内にいるロシア派の方が使いでがあっただろう。
 党畜さんたち、残念だったね。
 
 

2017年6月18日日曜日

小沢一郎はファシストだったんじゃなかったっけ?

 共産党が「小沢一郎はファシストだ」と、宣伝カーを出して言って回ってた事があったけど、今はファシストじゃなくなったのかな?
 共産党はその筆頭だけど、野党とか左翼とかって、ファシストの定義をせずに人をファシストよばわりして、訂正もせずに、有耶無耶にする。
 いや、小沢一郎がどこかで考えを変え、ファシストだった自分を反省したのかな?
 そういう事もないなら、つまり、小沢一郎がファシストのままなら、脱原発はファシストの主張になるし、違うなら、かつて共産党は間違った誹謗中傷をした事になる。さて、どちらだろうか?

 どちらかというと、民主党に入る前までの小沢一郎は普通だったが、民主党に入るあたりから怪しくなった感じがする。脱原発に首を突っ込んでても、馬鹿だなとは思うけど、今でもファシストだとは思わない。それよりも、元々、気の小さな人だったようだから、親分でいるのが苦しくなってしまったんだろうねとは思う。

 まあ、小沢一郎の人物は横に置いて、共産党は、やっぱりその場その場でいい加減な事を言って騒いでは、三歩歩かないうちにすっかり忘れて、次の騒ぎをはじめる連中だというのは確かなようだね。

 ああ、共産党、口だけじゃなくて、暴力も凄いよ。全共闘運動華やかなりし頃、一番強いゲバ部隊は民青で、その特殊部隊があかつき行動隊、二番目が革マルの部隊だったようだ。他はどんぐりの背比べだったらしい。
 ゲバ民と呼ばれた民青ゲバ部隊は存在しない事になってたが、これは共産党の嘘のひとつ。共産党は、暴言と暴力と嘘で固めた組織だという事例のひとつ。さすが、終戦直後、暴れまわっていた朝鮮人の手で刑務所から出された人殺しをトップに頂き、ソビエトから資金援助されていた党だ。

 おー、こわ。



日本は平和だ



元陸自レンジャーなど自衛官OBらが平和願う団体設立 「日本は戦争に不向き」


 これ、週刊金曜日の記事だけど、ヤフーニュースにあった。
「日本は戦争に不向き」って、稚拙すぎる言葉だね。確かに、北朝鮮は戦争に向いてるというか、戦争を向いてるというか、超軍国主義の軍事国家だけどね。日本は違う。
 平和を願う団体かぁ・・・日本は平和だからね。支那や北朝鮮が攻めて来なければ戦争なんかにならないもんね。

 北朝鮮も、拉致問題に取り組む誠実さが少しでもあればいいんだけど、そうだったら、最初から拉致なんてやらかさないね。





2017年6月17日土曜日

大丈夫って、時々、意味わからない

「こういう着こなしすると、脚が短く見えるかな」
「大丈夫だよ。どうやっても短いから」



猫時計がいない

 何だか猫時計、消えてる・・・可愛かったのに・・・

2017年6月16日金曜日

どちらかと言えばね

 どうも、左足より右足の方が臭い。



しぶといタレントさんだったと思う

 野際陽子が死んだ。
 キーハンターってやってた女優さんだ。

 ♪ あー、あの日愛した人と、今日は敵と味方の私ー ♪

 って主題歌歌ってた。確か、妹は、英国のフリーというバンドのボーカル、ポール・ロジャースと結婚してたと聞いた事がある。今は知らない。

 で、キーハンターの歌だけど、ただの普通の夫婦だと思うのです。



文部省、いらなくね

 どうして大学が学部を新設するのに、文部省に認めてもらわなきゃいけないんだ?
 経営判断だけでいいだろう。それでダメなら倒産すればいいだけだ。どうして国家統制を受ける必要がある?

 文部省は許認可の権限を手放したくないだろう。各大学に天下り用の教授席を持っていて、他の省庁にもその席を都合し、よろしくやって来た。

2017年6月15日木曜日

耽溺

 テレビでオシャレなお店の紹介を見るたびに、こういう店のある街に住んでなくて良かったと思う。道を歩いていると、頭の上から、フィリピン人のおばちゃんが大きな声で携帯電話をしているタガログ語が聞こえて来る方が、よく理解できないけど、オシャレなのだけはわかる店があるよりはいい。フィリピン人女は、マンションの二階の通路に出て話している。何か力に満ち満ちているな、とてもかなわない。こういうのげんなりするし、本当は静かな方がいいが、贅沢は言わない。

 贅沢と無縁なのはそれだけじゃない。よく考えると、どうやったら贅沢が出来るのか、やり方を知らない。ユニクロの何倍もする服があるのを知って、そりゃ過払いだといきどおりを感じたが、相手にされなかった。アディーレ法律事務所に無料電話相談してもだめみたいだ。残念。

都市の静けさ

 吉野家も割りと静かだが、これまで一番静かだったのはやよい軒だ。
 人形町で入ったのだが、客は男ばかりで誰もしゃべってなどいない。ただ黙々と食べるだけだ。これで女がいたら、食う口と喋る口が別にあるから、うるさくなる。
 店内は無音で、静かに、ゆったりと食事が出来た。

2017年6月14日水曜日

ヨガや太極拳はエアロビ・ダンスではない

 太極拳やヨガなどは音楽をかけて稽古するものではない。本来、それぞれの人が自分のその時のリズムで動作するもので、音楽に合わせてみんなでイチ、ニィ、サンというものではないからだ。

夜の向こうにたくさんのものが消えて行く

 埼玉県の浦和に住んでいた事がある。駅の東側だった。
ある夜、駅からの帰り道を歩いていると、声をかけて来た人がいる。
「東口は、元は色街で赤線だったんだよ」
そんな風に話は始まった。


「戦後、進駐軍は朝霞にいて、車で女を買いに来るんだ。凄いスピードでジープを飛ばしやがって、人がいてもブレーキなんかかけやしない。威張りくさってやがった」

「それでも、米軍だって言うから、さぞや立派な連中かと思って見てたら、何か食ってる。それが生の玉ねぎだ。ただの田舎者だ」

「その頃、何だか嫌になって、街で喧嘩ばかりしていた。それで目をつけられたんだろうな、ある時、ヤクザ者たちに囲まれ、赤線宿に連れ込まれた。これで終わりかな、ええい、構わねえやと思ってふてくされていたら、ヤキを入れられる寸前に、赤線の女が飛び込んで来た。その女が、この人は違う、堪忍してくれと、頼んでくれた。小学校の同級生だったらしい。俺の事を覚えていて、この人は上の学校に行ってるんだから、そこらの半端者と違うから助けてくれと、必死にかばってくれた。小学校の同級生だったというだけで、体を張ってくれた」

「助けられたけど、あそこには二度と近寄れない。礼ひとつ言えずにそのまんまだ」

この人のように終戦後、虚無感に陥って馬鹿の真似をした子供や若者は日本中にいた。阿久悠が「リンゴの唄」は終戦直後に流行ったのではなくて、少し後に出て来たのだと書き残した文章の中で言っている。
本物の愚連隊の方は、闇市を取り合って、元気に三国人と戦っていたし、盛り場で米兵と喧嘩していた。博徒は客商売の賭場が大事で専念し、喧嘩出入りは愚連隊に頼んでいた。愚連隊だった人が、ヤクザは弱かったと教えてくれた事があった。

この人は、悲しかったのだ。玉ねぎをかじりながらジープを飛ばし、日本人など跳ねても構わないと心得ているアメリカの田舎者に蹂躙される日本が悲しかった。そんな奴らに買われる同級生の女も悲しかったし、その女に助けられた自分が情けなかった・・・

あの人はその後、情けなく生きて行くのが一番誠実な生き方だったろうし、そうするしかなかった。本当の馬鹿だったら、くだらない意地を張って、喧嘩三昧を続け、早死しただろう。同級生が「この人は違う」と指摘したのは正しかった。しっかりと情けない生き方に耐えた。
たいていの男は、そういう風に女に見透かされるのに手も足も出ない感覚を持ち、嫌がるのだが、あの人は命がけでそのありがたさを体験した。死ぬまでそれを粗末にしない以外に生き方はなかっただろう。至上の幸福を手放さないだけの素直さはあった。

帰り道はずっと同じだったけれど、プラスチック工場をやっているというその人と、二度と会う事はなかった。









2017年6月11日日曜日

ああ、上野駅

 昔々、通勤途中、上野駅でトイレに入った。大勢並んでいた。あまり考えずにいい加減に後ろに並んだ。
 失敗だった。先頭にいるのは、何と爺ィだった。

アッサム問題

 安いアッサム・ティーの茶葉を買った。臭いが悪い。
 そこで、臭いを飛ばすため、温め直しを飲んでみた。
 臭いがなくなると、味は良い事に気がついた。

進歩派って、停滞や反動を生み出すだけだし、自分たち自身一度も進歩した事がない

 今時、共産党をはじめ、左翼というか進歩派というか、そういう連中の言う事を真に受ける方がおかしいんだけど、年寄りは自分の知ってる(と思ってる)事で朦朧と感想を持ち、テレビから仕入れた「意見」を持ったりする。
 新聞を読むのは年寄りだけなので、年寄りの知らない(あまりにも多くの事)はない事にして、新聞は年寄りが知ってると思ってる事を、知ってると思っている通りに「報道」する。
 左翼には、まったく内容がないが、その形骸は年寄りが知っていると思っている事に適応する。ここから何か役に立つ内容を引き出すには、病理の症例として見る以外にないかもしれない。
 今のメディアのザマは、高齢化社会の社会的脳軟化の症状みたいなもんだ(これ、比喩だからね)。

2017年6月10日土曜日

未成年かぁ、ピート・タウンゼントもなぁ・・・

 小出恵介、「調査」だったと言って、安倍の悪口でも言えば、朝日新聞が英雄にしてくれるのに・・・
 今からでも間に合うかもよ。

2017年6月9日金曜日

問題までが遠すぎて、解決には至らない

 女性はよく「男は問題から逃げる」と言う。確かに逃げ腰だけれども、そこはアプローチが違うと考えられないだろうか?
 女性が正面から正眼に構え、えいやと突撃する所で、男はスキをうかがったり、理解しようとしたり、一回りしてみたり・・・女性は、そこでじれったがるけれども、何でもかんでも正面突破すればいいというものでもない・・・と思う・・・ちがうかもしれないけれど・・・確かめてみないとわからないし・・・だから、逃げてるんじゃなくて、確かめて・・・言い訳じゃなくて・・・確かめ・・・て・・・怒ることないと・・・あるね。ある・・・えーと、うんと、あー、えー、まぁその・・・

支那政府は支那人を統治していればいい

 中共は支那人を統治しているという点だけは唯一無二だ。国民党も、もう近代化されて支那人統治には耐えられないだろう。本当は清王朝が一番良かったかもしれないけど、それはないものねだりになる。
 言い方を変えると、支那人が野放しになるよりは中共に我慢した方がマシとなる。

 清王朝は大帝国で、当時の列強に植民地を貸している感覚だったと思う。だから、列強がいなくなった後は、支那の下になるのが当然だというのが、今の支那の感覚かもしれない。あの平気さ、図々しさの理由はそこじゃないかね。
 ただ、誰も中共の下に置かれたくないし、鼻の穴を膨らませた支那人に威張られたくもない。





英国って、北朝鮮に外交官駐在させてるんだよね

 EU見てると、ヨーロッパって、結局、ロシアかドイツに支配される運命だったのかもしれないと思えて来る。

 ルーズベルトは、これが嫌でソビエトと手を組んでドイツを叩いた。ヒトラーだけじゃなく、スターリンも十分以上に悪魔だったけど、それでも、ドイツを打倒した。
 あの時点ではそれで正解だったし、ドイツとソビエトがつながっていて、第二次大戦前のドイツ軍が、ソビエト内で秘密軍事演習している状態は見逃せなかっただろう。ドイツとソビエトの間に楔を打ち込めば、対日政策も、対支政策も決まって来る。

 日本は東アジアで最大の軍事力を持っていたが、目的は半ば達しつつ、大東亜戦争に負け、無力化した。それ以後、他の手段をもってする戦争の継続である政治力によってEU統合に突き進んだドイツと違って、日本は何もしなかった。ドイツの構想力には舌を巻くが、日本人の国民性にそんなものはない。ドイツ人はスペイン人やイタリア人なんか嫌いだろうし、嫌われてもいるだろうに、無理に無理を重ねて統合する意味が・・・うーん、もしかしたら、ヴェストファーレン条約から、一歩前に進むみたいな意味かな、だったら価値がある。

 対戦前、英国は対独政策に沿って、大陸に諜報網を構築していた。これは対独戦から、対露冷戦まで稼働した。
 元々、イタリア北部のアナーキスト(リバタリアン)組合活動家だったムッソリーニのファッショ運動を切り捨てたカトリックは、それ以来、冷戦時代を通して英米の戦略に乗った。最大と言える作戦はポーランド連帯で、情報機関、教会、右翼、暗黒街、フリーメーソン、オプスデイまで参加し、資金を含めてあらゆる支援を展開した。
 その結果が、ドイツって・・・・

 カトリックは、リベリア半島やイタリアやポーランド、オーストリアやハンガリー、どうするつもりかな・・・

 英国のEU離脱で、地政学は復活した。

2017年6月8日木曜日

ここに未来が訪れるには、長い年月を必要とする

 人工知能に脅かされるって、平気だよ。お前、最初から知能なんてないんだから。人工知能がお前にとって代わるのは不可能だよ。



幸せの法則の法則

 丼ばちゃ浮いた浮いた、すててこシャンシャン

 と歌うと、少し愉快な気持ちになる。

 幸せ業界の人たちは、こんな事言わないけど・・・


2017年6月7日水曜日

ガス人間第一号って、あったな

 ウンコでしゃがむ直前に屁をこいたら、拡散前のクラウドに頭を突っ込む格好になった。希釈されていないガス状のガスにさらされて、死ぬかと思った。



銃弾が汚れてると、銃身が詰まって暴発するよ

 週刊新潮のカンニングしてた週刊文春、さっさと謝って、またやればいいじゃん。
 今度は、週刊新潮のトップ記事丸写しはどうかな?

ところで:
「文春砲、汚れた銃弾」というタイトル、大砲だったら銃弾じゃなくて砲弾だと思うんだけど、大砲なのに銃弾というのは、大げさなわりに、ネタは小さいという皮肉なのかな?
 だったら、「文春砲、汚れた爪楊枝」とか、「汚れた糸くず」とかどうだろ。直接的なんだったら、「文春砲の短小包茎ソチン先細早漏」なんてかなり刺激的だ。



科学的実験と言語の研究

 盛り上がってる時に、
「どんだけ~!」
 って言ったらしらけた。

 テレビの「お姐マンズ」、絶妙の時間帯で始めた番組だったのに、一般的ないい時間帯に持っていって失敗した。放っておきゃ良いものを必ずいじってダメにする。テレビ局って、学ぶ事を知らない馬鹿だね。

 ここで、握った餌を放さなくて捕まる猿の話を持ち出すと嫌われる事は、すでに実験で検証してある。


2017年6月4日日曜日

ウルトラマンはカップ麺が食べられない

 袋麺もカップ麺も生姜を足すと美味しくなる。
 おろし生姜のチューブを握りしめながら、3分間待ってる自分自身がくだらなく感じられるのに耐えるだけの価値は・・・どうかね?

2017年6月3日土曜日

ああ、コリャコリャ

 どんぶりばちゃ、浮いた浮いた ステテコシャンシャン

 とかやって楽しかったなんて、昔の日本人て、やっけぱちになってたのかな・・・?


2017年6月2日金曜日

医療ドラマの次の日

 テレビの医療ドラマを観て、
「凄いなぁ。どうやってあんな診断や手術出来るんだろう?」
 なんて楽しみながら思ってる医者がいたら、嫌だ。
 俺が間違って医者になってるパラレルワールドの住民は可哀想だ。そういう医者になるに決まってるから。とうてい医者になんかなれないこの世界で、みんな良かったと思ってくれ。

 Dr.House の放送日の翌日に無謀な診断が増えたとか、そういう統計ってないのかな?
 Dr.X だったら、無理な手術の失敗とかね。

ほどほどとか、そこそことか・・・

 森羅万象を政治に取り込もうとするのを全体主義という。

 全体主義の問題で、抑圧だとか、人権の侵害とか、そういう倫理的な部分は副次的だ。一番の問題は、何から何まで政治が関与するなんて不可能だという事だ。
 不可能を可能だと思い込み、推進すると、破綻する。
 そこで諦めればまだ救いはあるが、破綻を隠し、成功しているかのように嘘をつく。理想のためには隠蔽も嘘もやむなしとする。でも、無理な事は無理だから、最終的な破局は大きくなる。

 ソ連・東欧や支那、北朝鮮などの社会主義全体主義、ドイツのナチス国家社会主義など、失敗例しかない。
 政治ではなく、信仰で世界を包み込んだ中世欧州も、カトリックからプロテスタント諸派が分岐派生し、国家が世界から分離した事で終わった。

 政治などよりも、はるかに強力で深みのある宗教で出来なかった事を、どうして政治で出来ると思い込んだのか不思議だし、ここでまた宗教を持ち出しても無意味だ。

 でも、人間には、どうも全体主義に向かう傾向があるようだ。また、その傾向は理想と関係がありそうだ。そういう事で、しばらくすれば、誰かが何か持ち出して来るはずだ。

 まったく理想もないようなのも嫌だけれど、理想だけで押し切られても迷惑だ。
 理想は劇薬で、その劇薬を何によって、どれくらい希釈すればいいのか・・・桃屋のめんつゆなら瓶のラベルに書いてあるが、学問とかは濃くする事しか考えていない。勉強するとおかしくなるというのは一面の真理だ。カウンセラーだと薄すぎる・・・

 これは答えの出ていない問題なのか、こちらの無知か・・・さて?

乳がん検診の偽陽性リスクなんて、すぐに調べられるのにね

 乳ガン検診は、ガンの人なら物凄く高い確率で陽性を検出できるようだが、同時に、ガンではない人を陽性だとしてしまう偽陽性の確率も非常に高い。
 偽陽性の場合、何でもない人が苦しい治療を強いられる事を考えると、リスクとしては偽陽性の方が高くつく。
 実際、アメリカの統計で人数ベースで言うと、陽性の人よりも偽陽性の人の方がはるかに多い。

 人気のある芸能人が乳ガンになったからと言って、そのリスクを取る事は賢明ではない。ワイドショーの影響を受けた思いつきで、どうもかなり痛いらしい乳ガン検診を受診した上で偽陽性になったらどこにも救いはない。
 それでも、今のところ、乳ガン検診は、どこも満員で、何ヶ月も待たなければ受診できないらしい。
 
 で、これを嗅ぎつけ、得票につなげようと、政策に掲げる政治家が出て来る。偽陽性のリスクについてまったく触れないので、ちゃんと勉強して政策にすべく真剣に取り組んだのではない事がすぐにわかる。

 女の政治家だったりする。いい加減な女だな。

 森羅万象を政治にたくしこもうとするのを、難しく言うと全体主義政治と言うんだよ。


まあ、こういう事もね

「みんなに知って欲しい」
「知りたくないよ」


2017年6月1日木曜日

悪い音源こそ、いいオーディオがいいんだけど・・・

 年齢のせいか、音楽の好みが古い方に広がった。戦前のブルースの録音なんかだと、音源そのものの音質が悪い。聞き苦しくて困る事もある。
 それで、いいオーディオを使う意味がわかった。新しい、質のいい音源を聞くなら、そこらの安物で十分だ。でも、古い音源は、いいオーディオでないと楽しめない。
 昔のジャズ喫茶がオーディオに凝ったのには、こういう理由があったんだね。好きになったジャズを、いいオーディオで聞くと、さらに好きになる。

 でも、CDドライブに猫の毛が詰まる環境で、オーディオに凝るなんて不可能だし、音楽に溺れたら、イ号潜水艦になって、浮上しないと思う。いいオーディオは、遠く夢見る世界だ。

 アナログのターンテーブルに猫がどういう興味を持つか想像すると、可愛くはなるが、想像の世界から現実に取り出す気持ちにはならなくなる。

 ま、金もない奴が、いいオーディオなんて、考えるものじゃない。


 

これ違くね?

 加計学園問題に興味はないが、報道で「腹心の友」という言葉が出て来るのに違和感がある。腹心と来たら、続くのは「部下」だろう。後で「友」が来るなら、頭は「刎頚」だ。
 こういう決まり文句は意味がつながるからと、勝手に変更して使うものではない。「友」と言いながら、実は上下関係なのを、わざと言っているとか、誰かが知ったかぶりで言ったのを、そのままさらし刑にするとか、そういう遊びはありえるが、そういう悪意の冗談でないのなら、馬鹿だ。
 こんな言い方を平気で使っているメディアは、悪意か馬鹿か、はっきりしてくれると助かるが、そういう誠実さがあるとは思えないので、言いっ放しで終わるとは思う。

 加計学園なんて、どうでもいい話よりも、こうした言葉の乱れが横行する事の方が大きな問題だ。残念ながら「言論機関」は、こうした大きな問題を対象にしないで、瑣末な事に右往左往するのに血道を上げる。

 やっぱり、微妙な悪意を表現するような芸当は、彼らには無理だな。馬鹿なんだな。
 事実を見るのに、馬鹿の視野を通さなければならないのは、ひとつの不幸だ。


幸せの紅茶

 いつもの日東の紅茶がなくなったので、別の茶葉を探し出して飲んだ。
 オレンジかな、皮が入っていて、とてもいい味だし、幸せになった。
 聞いたら、プレゼントで、ディズニーランドで買った物だという。
 こんなに美味しいなら、英国人が紅茶に入れあげたのも理解できる。

 チャも、チャイも、テも、ティーも語源は同じで、支那だ。支那は古代で終わっていて、今も古代のままだ。三国志が優れているのと同時に、支那に進歩がない。支那の今は今ではなく古代のままだ。それを、こっちの今と同列に考えるのは誤解だ。
 期待に基づく誤解を拡大し、犯罪者・毛沢東を崇拝し、残虐な蛮行だった文化大革命を英雄的な国民運動ともてはやした薄ら馬鹿どもが、かつて存在した。

 高級紅茶にも色々なブランドがあるらしいが、ブランドはまとめてカルダンと呼ぶぐらい、そういうのが苦手で、結局、ニットやリプトあたりを飲む事になる。

 日東は、あの昔ながらの紫色のパッケージの紅茶をやめてしまい、味を捨ててしまった。あれが好きだったのに残念だ。
 復活させてくれないかしら。

 紅茶には、幸せになる紅茶がある。