2017年7月9日日曜日

事例研究: 硬化全体主義者と小心なメンター

 森ゆうこ(森裕子)という参議院議員がいる。自由党の所属だ。
 この人は2003年7月25日の参議院外交防衛委員会でイラク特措法案の採決で暴れ、他の議員(大仁田厚)を殴った。
 森は、暴力の理由を、
「多数決の原理だけで強行採決するのは、民主主義を無視したやり方だ。これでは民主主義ではない」
 と語った。
 自由党党首・小沢一郎は森を「我々の闘士」と持ち上げた。
 暴力で意思を通そうとするのは民主主義だと考えているようだ。この人は、自分の思い通りになる事が民主主義だと認識していると仮定できる。小沢一郎、何が「闘士」だよ。薄ら馬鹿だな。
 2004年6月4日、参議院本会議で、年金制度改革関連法案の成立を阻止するため、国井正幸厚生労働委員長解任決議案の提案趣旨説明に立ち、3時間1分に渡って長時間演説による議事引き延ばし抵抗戦術を行った。
 趣旨説明の内容は「身の上話や議事録の棒読みで時間を稼ぐなど中身の薄いもの」(朝日新聞社説)だったらしい。当時の参議院議長・倉田寛之から何度も「簡潔に、常識の範囲でやってください」と注意された。
 終了後、記者団に質問されると、
「これから本題に入るところだった。まだ数時間やるつもりでした」
「選挙で一日マイクを握ってても大丈夫ですから」
 と語ったという。
 いくら記者団でも、心配して質問したんじゃなくて、非常識だから批難する意味の質問をしたはずだ。それに対してこういう応答をするってのは、かなり自分勝手だとも仮定できる。
 小沢一郎は何か言わなかったのかな?
 2006年10月11日には参院予算委員会で質問当日に初めて目にした週刊現代の「安倍晋三は拉致問題を食い物にしている」という記事を紹介し、これを元に安倍首相(第1次安倍内閣)に質問したが、安倍首相に、
「私はそういう記事はいちいち読んでいません。拉致を食い物にしているとか、そういうことをこの委員会で言うのは失礼じゃありませんか」
 と、一蹴された。
 読んだばかりで、真偽も確認していない週刊誌を元に質問する神経は凄い。無神経であり馬鹿だと仮定する事も可能だ。
 この質問の前に、拉致被害者家族が北朝鮮の国民と家族に向けてメッセージを放送する短波ラジオ「しおかぜ」を支援するように参議院で提案しているが、せっかくいい提案をしておいて、これだから、北朝鮮による拉致被害者支援を政治利用する悪質な政治家と仮定する事もできる。
 議会はちゃんと、この提案は了承し、政府からNHKに「しおかぜ」を援助するよう要請がなされた。
 いい事は冷静に聞き、やるべきと判断したらやるというのは、第1次安倍内閣の議会はきちんとしている。ここに暴力や妨害行為、政治利用は一切ない。また、小沢一郎に「闘士」と賞賛される人物も一人もいない。
 自分の思い通りになる事が民主主義だと認識し、暴力も辞さない、自分勝手で無神経で馬鹿で、北朝鮮による拉致被害者支援を政治利用する悪質な政治家と仮定できる森ゆうこだが、まだ活躍している。
 2010年10月21日の参議院厚生労働委員会で、三原じゅん子が子宮頸がんの予防ワクチンと子宮頸がん検診の無料化を訴えた。
 三原じゅん子は、子宮頸がんの影響で子宮摘出した経験から、
「女性にとって最も大切な、子供を産むという機能を失ってしまった」
 と語った。
 森ゆうこはこれに噛みついた。
「女性は子供を産むためにあるような表現で不適切だ」
 こう批判したという。
 森ゆうこ、自分の身の上話はいくらしても大丈夫なのに、三原じゅん子はダメなんだね。
 女性にとって子供を産むという機能が大切だというのは真実だ。どうして異論があるかわからないが、三原じゅん子の言葉を「女性は子供を産むためにあるような表現」と受け取るのは、受け取り方が歪んでいる。無理やりにでも批判したかっただけにしか見えない。この森ゆうこのの批判は、与太者が因縁をつけるのと同じだ。難癖でしかない。
 三原じゅん子が、森ゆうこの批判する内容の発言はしていない事ははっきりしている。
 国会は非常識な発言でもないかぎり、その表現を云々する場ではない。そういうのは思想学習の場で行えばいいのであって、国会は思想学習の場所ではないからだ。
 そして、万が一、森ゆうこの難癖のような内容、つまり三原じゅん子が言っていない内容である「女性は子供を産むためにある」と考える議員がいたとして、それが一定の民意を代表しているならば、これは、そうした考えを持った人々がいるのだから、その人々の利害を尊重するのが民主主義だと理解しなければいけない。森ゆうこは、そんな民主主義の基本もわかっていないらしい。
 民主主義を理解していない(あるいは、日本共産党のように、日本共産党に味方する事が民主主義だと理解しているかもしれないと仮定できる)森ゆうこは、三原じゅん子の考えを批判したいわけだが、それは、人の考えを支配し、型にはめようという姿勢だ。これを別の言い方で表現すると全体主義となる。
 森ゆうこは全体主義者である。これは仮定の話ではない。しかし、これまでのいくつかの仮定を参照してみると、本人に自分が全体主義であるという自覚はないかもしれない。これだけ柔軟性がなく(仮定ではない)、傍若無人(仮定ではない)なのは、かなり硬化した信念(妄念と表現すべきかもしれない)を持っているが、本人に自覚する知能がないからだと仮定できる。あるいは、サイコパスの可能性もある。とりあえず周囲が柔らかく自覚を即すべき対象に思える。
「闘士」などと煽るのは一番いけない。無責任きわまる行為だ。小沢一郎、小心者なのは知っていたが、悪質でもあった。