2017年7月29日土曜日

王子と新田


 いつも拝見している 将門ウェブ に、
新田(にった)と新田(しんでん)」という記事があった。

 新田(にった)と新田(しんでん)

   私はこれを新田(にった)と読んでいました。新田義貞のためです。実際に新田(にった)さんにもお会いしています(この方は鹿児島の人でした)。星砂の竹富島でもこの新田さんのところへ泊っています。今では新田荘として有名なようです。
   思えば徳川政権も新田義貞の関係の子孫だといわれ、徳川家康は「源氏」だと言われていました。
  でもここ王子に住んでみて、歩いていけるところに新田(しんでん)というところがあったときに驚いたものです。
(元の記事には、新田義貞を描いた絵と、新田橋の写真があります)

 この新田は、「南千住と山谷、そして・・・」という記事で、以下のように触れています。

 足立区の首都である北千住と新田を直付けしないために、北区がカットに入ったという説を発表しました。

 本来なら、隅田川にあっていいはずの北区と足立区の区界が、隅田川を越え、堤防土手を越えて荒川に真ん中にある理由についての邪推がこれでした。
 新田は交通の便が悪く、王子にバスで出るのが一番鉄道に近いのです。交通という事でなら、王子に属していると言っていいかもしれません。新田が王子の一部として、北区に入っていた方が感覚的に座りがいいのです。
 そこで、足立区が新田を引き受けたので、北区が区境を伸ばして、足立区と地続きの部分を一切なくしているというのが、北区カット説の、馬鹿野郎な全貌なのです。
 将門ウェブの記事には新田橋の写真が掲載されていますが、この橋は北区の庚申通りとつながっている橋です。
 新田から庚申通りを通って行くと、北本通りに出ます。北本通りを真っ直ぐ行くと、王子です。反対側に行くと赤羽方面です。
 北本通りから庚申通りに入る入り口に庚申塚があります。庚申塚は、所々にぽつりぽつりとあり、結んで行くと葛飾の柴又までつながっています。
 昔、柴又では、庚申の会というものをやっていたそうです。60日毎にある庚申の日には、腹の中にいる虫が寝ているうちに外に出て、閻魔様に告口をするというので、虫を阻止するため、夜通し宴会をやっていたようです。
 腹の中の虫というのが、少し道教的ですが、全体としては密教的な世界を感じる話です。
 新田橋がまだ、木の橋だった頃、隅田川に渡し船があり、何度か乗りました。船着き場が北本通りに近い所にあったからです。北本通りには都電が走っていて、どこに出るにも便利でした。

 庚申通りには、昔、映画館があり、時代劇や怪獣、クレージーキャッツ、加山雄三などの映画を観ました。その映画館は後にスーパーになりました。
 洋画は王子に行くか、東十条方面の神谷という所にあった神谷映画に行きました。2本立て、3本立て上映を観るためです。一気に3本もの映画を観るなんて、今ではもう出来ません。

 ああ、そうだ、新田は前は野新田と言っていたのです。「やしんでん」と読みます。バスの行き先表示にも、「野新田」となっていました。馬鹿な中学の教員が「おまえら、のしんでんなんだぞ」と、小馬鹿にした事を言ってましたが、趣旨も教育的効果も、いまだにわかりません。英語の教員も、ほとんど英語が出来ませんでしたし、貧乏な家の子を酷く殴るような人でした。貧困層の多い地区には、優秀な教員は配属されないようです。あの薄ら馬鹿ども、もう死んでるでしょうが、死んで惜しいような人はいませんでした。

 今の足立区の学校は、小中学の給食に力を入れているそうです。給食がおいしいと子供が学校に来るからだそうです。

 赤羽、東十条、王子には古本屋さんが沢山ありました。一人で、古本屋を何件もハシゴして、新刊本では見かけないような本を眺めて、何が書いてあるんだろうと思っていました。あの頃は読んでみたい本が沢山ありました。昔の方がいい本が出ていたからではなく、くだらない本が沢山あるのを知らなかったからです。